詩人の墓
魅力的な詩を書くひとりの詩人と、その詩人に出会って結婚するひとりの娘を描いた物語詩。
娘は大好きな詩人と結婚することができたが、ときどき悲しさを覚える。
以下に、詩人と娘が出会ってからの詩の一部を引用する。
“
その日から娘は男と暮らすようになった
娘が朝ご飯を作ると男は朝ご飯の詩を書いた
野苺を摘んでくると野苺の詩を書いた
裸になるとその美しさを詩に書いた
娘は男が詩人であることが誇らしかった
畑を耕すよりも機械を作るよりも
宝石を売るよりも王様であるよりも
詩を書くことはすばらしいと娘は思った
だがときおり娘は寂しかった
大事にしていた皿を割ったとき
男はちっとも怒らずに優しく慰めてくれた
嬉しかったが物足りなかった
娘が家に残してきた祖母の話をすると
男はぽろぽろ涙をこぼした
でもあくる日にはもうそのことを忘れていた
なんだか変だと娘は思った
”
そしてしばらく経ち、娘はついに詩人に思いをぶつける。
“
ある夕暮れ娘はわけもなく悲しくなって
男にすがっておんおん泣いた
その場で男は涙をたたえる詩を書いた
娘はそれを破り捨てた
男は悲しそうな顔をした
その顔を見ていっそう烈しく泣きながら娘は叫んだ
「何か言って詩じゃないことを
なんでもいいから私に言って!」
”
詩人として生きることしかできない男は、娘になんという声をかけるべきだったのだろうか?娘はなんという言葉を求めていたのだろうか?
わたしはこの詩を最初に見たときに、男女の考え方の違いを表しているのかなと思った。
一般的に男性は仕事を生き甲斐にするものであり、場合によっては家庭よりも仕事を優先するもの。
それに対して女性は業務的なことよりも共感を求めるものだ、というイメージがある。
実際にその傾向は強いと、個人的にも思う。
そのような男女の間で生まれる考え方のギャップを、この詩では表しているのではないだろうか。
谷川俊太郎は、非常識とも見られるほど自由な人間だったと以前聞いたことがある。
谷川自身もこのギャップに苦しめられた一人なのかもしれない。
この詩に影響を受けた音楽作品からも、『詩人の墓』にアプローチしたい。
わたしがこの詩を知ったきっかけは「水中、それは苦しい」というロックバンドが『芸人の墓』という、『詩人の墓』をもじった曲を出していたことだった。(https://youtu.be/i0g4YwG-IkQ)
このバンドは基本的にふざけたような曲が多いが、『芸人の墓』については谷川俊太郎へのリスペクトが感じられるし、同時にアート全般に通じるメッセージが含められているとわたしは捉える。
数ある仕事の中でも、詩人や芸人といった表現者は、ときに自分の才能やアーティストとしての自分に溺れて、本来の自分を見失ってしまうことがあるのかもしれない。
『詩人の墓』を読んだうえで、あるいは読む前に、こちらの歌を聞いてみるのも面白いと思う。
皆さんはこの詩を読んだとき、何を感じ、誰を最初に思い浮かべるでしょうか。
ぜひ聞いてみたいです。